2023年1月31日火曜日

節分

 「鬼は外~福は内~」2月3日の節分には、このような掛け声とともに一年の幸せを願い、豆をまく光景をよく見かけるでしょう。 「節分」と聞くと、豆まきをしたり、恵方巻を食べる“行事”の名前と思う方もいらっしゃると思いますが、本来は季節の分かれ目のことを言い、現代では特に二月の立春の前日を節分と呼んでいます。  仏教では、「鬼」を常に飢えと渇きに苦しむ亡者「餓鬼」と同一視することもあり、その餓鬼も救いとるとの思いから、「福は内」とだけ言い、「鬼は外」とは言わないそうです。この餓鬼は、生前、嫉妬深かったり、物惜しみが強い人が生まれ変わった存在とされます。その餓鬼は私たちとも無縁の存在ではなく、私たちの心の中にも、餓鬼(鬼)と同じように、自分の幸せに執着してしまう気持ちがあります。   節分は、一年の幸せを願う行事であり、それを願うことは大切です。しかしそれが執着につながるとかえって苦しみとなってしまいます。邪気を払う節分の時期、私たち自身の心の中にある「鬼」となってしまう欲望の気持ちを払う機会としたいものです。

2023年1月1日日曜日

 お正月が「冥土の旅の一里塚」(一休禅師)としてリアルに感じる年になった。年を重ねるにつれ、過去が増えて未来が減る。あるコマーシャルで川柳「おばあちゃん なにになりたい 孫がきく」が紹介されていた。なぜこれが川柳になりうるのか。それは「老人には未来がない」ことを前提にするからだ。 だが浄土経を前提にすれば、これは川柳にはならない。まだ私に孫はいないが、「おじいちゃん、将来は何になりたい?と聞かれれば、こう答えてみよう。「そうだな、この世で死んでから、まずは極楽に往生し、阿弥陀様のもとで修行し、それが終われば、この世に戻り、苦しんでいる人々を手助けする人になろう。お前が困っていたら、おじいちゃんが助けに行くぞ。」と。  そう考えれば、正月を迎えるのも悪くはない。浄土は「冥土(暗い場所)」ではなく、阿弥陀仏(無量光仏)の国土だから、光に満ちた場所だ。そこで禅師の短歌を少し浄土教的に改編しておこう。  「正月や 浄土の旅の 一里塚 めでたくもあり うれしくもあり」と。  今年は少し前向きに正月を迎えよう。 (浄土宗新聞1月号より) 合掌